スポンサードリンク
クリックで好きな項目に移動
西郷隆盛は生涯で3人の妻を娶っています。
その中でもとぅま(愛加那)は異彩を放っています。
薩摩と琉球の間に位置する奄美大島は、本当では見られない
風景が広がっています。
その中で西郷ととぅまは出会うわけです。
幕府の目から逃げるための奄美大島いきでしたが、ここでの
経験が後々の行動に影響力を持っています。
西郷どんでの名前は「とぅま」で統一されていて、実は
この名前は幼少時の名前からなんです。
今回はとぅまの子孫や子どもたちと手の甲にある入れ墨の意味、
そして生涯や壮絶な最後を紹介します。
手の甲にある入れ墨の意味
とぅま美しい。
何回見ても二階堂ふみの演技に圧倒される。
最初の島唄でドカンと射たれます。 pic.twitter.com/5cSzM07HpW— さとん (@yyy2stn) 2018年5月19日
とぅまの手の甲には入れ墨がしてあります。
初登場のときに気になった方も多いのではないでしょうか?
もちろんこれは江戸時代末期の文化などではなく、琉球王国の文化です。
奄美大島は長い年月を琉球王国の統治下にあったので琉球王朝の風習が
根強く残っていました。
模様も様々で時代や住んでいる島そして身分によっても模様は変化したそうです。
さて、手の甲の入れ墨の意味ですがこれは、成人した女性を表したものです。
この入れ墨は女性が13歳頃になると左手に入れられていたそうで、なぜ13歳
かというと「体が成熟して子供を授かる準備ができた証」なのだそうです。
さらには、結婚すると右手にも同様の入れ墨が施されます。
これは想像通り「結婚の証」となります。
入れ墨のもう一つの意味
「成人の証」、「結婚した証」と紹介した入れ墨ですが、実は他にも
意味があります。それは”魔除け”です。
これにはちょっと悲しいわけがあって、あの時代にも悪事を働いている人がいて
人の家の娘をさらって余所の土地で売って生計を立てている人もいました。
そんな悪人から我が子を守るためにも入れ墨を入れていたのです。
また、入れ墨をしないまま亡くなってしまうと天国に行けないと信じられていて、
死後でも入れ墨を入れる風習はあったようです。
とぅまの生涯
さすがとぅまどん、
島のイモリとも心通じ合っちょ!#大河ドラマ #西郷どん#二階堂ふみ #とぅま pic.twitter.com/lpKCvklCfX— 大河ドラマ「西郷どん」 (@nhk_segodon) 2018年5月18日
とぅまが生まれたのは奄美大島で、豪農の龍佐民の孫娘として生まれています。
龍佐民の詳細についてはコチラをご覧ください
![](https://sp-ao.shortpixel.ai/client/to_webp,q_glossy,ret_img,w_160,h_120/https://tenmainfo.biz/wp-content/uploads/2018/05/michael-olsen-501079-unsplash.jpg)
当時の奄美大島は薩摩藩からの重税で困窮していました。
税は黒糖で治められていましたがその重税から黒糖地獄と言われるほどの
圧政に民たちは苦しんでいました。
そんな情勢の中やってきた西郷は龍佐民の家に住み始めます。
このときに西郷ととぅまが初めて対面したことでしょう。
はじめは島民から疎まれていた西郷でしたが、徐々に信頼関係を築き上げて
龍佐民からのすすめもありとぅまと結婚することになります。
結婚したとぅまは西郷の島妻となってしまいますが、この島妻はいわゆる
妾(めかけ)で島津の掟では鹿児島本島に足を踏み入れることができないと
厳しく取り決められていました。
このことが後々までとぅまの人生に影響を受けます。
結婚後のとぅま
西郷ととぅまは仲睦まじい夫婦でしたが、西郷に本島への帰還命令が出てしまいます。
島妻であるとぅまはもちろん本島には入ることができないので、
ここで一旦離れ離れとなってしまいます。
西郷ととぅまが再開できたのはそれから約半年後のことです。
時の島津藩藩主・島津久光と仲が悪かった西郷は早々に徳之島に
島流しに処されてしまいます。
島津久光の詳細についてはコチラをご覧ください。
![](https://sp-ao.shortpixel.ai/client/to_webp,q_glossy,ret_img,w_117,h_160/https://tenmainfo.biz/wp-content/uploads/2018/02/Shimazu_Hisamitsu_島津久光.jpg)
とぅまは西郷が徳之島に渡ったことを聞きつけ、徳之島に自身と長女を
連れて渡島しています。しかし、すぐに西郷は沖永良部島に送ることが決定
されてしまい奄美大島に渡っています。
このときが西郷ととぅまの今生の別れとなり、その後奄美大島に帰っていきました。
壮絶な最後
とぅまの子どもたちは成人するとそれぞれ本島に行ってしまい、晩年は家族がなく
一人で暮らしていました。
たまに長男の菊次郎が顔を見せるのが唯一の楽しみだったようです。
とぅまの最後は雨が降りしきる中農作業中に倒れそのまま息を引き取ったそうです。
西郷がいなくなったあとも夫を取ることをせず、子どもたちは勉学のため
本島に行かせていて良妻賢母として名を残しています。
西郷との結婚して過ごした時間は決して長いものではなかったのですが、
仲睦まじく素晴らしい夫婦だったようです。
現在は、奄美大島の龍郷の田畑墓地に”龍愛子”の名前で眠っています。
とぅまの子どもたちとその子孫
#大河ドラマ #西郷どん #とぅまに共感してキュンと来てグッと来た!!!#とぅま pic.twitter.com/JaQ6tAUcuj
— ★魅乃乎★(川中美紀)小栗旬に恋する (@minoco19860125) 2018年5月13日
西郷ととぅまには2人の子供を授かっています。
長女・菊
12歳頃に菊は西郷家に引き取られています。
14歳になると従兄弟である大山誠之助(西郷の兄弟の子)と
婚約しています。
誠之助と菊の間には4子を授かっていますが長男の慶吉は陸軍士官学校を
卒業して職業軍人になっています。
最終階級は陸軍少佐で昭和17年に没しています。
長男・菊次郎
男子であったことから9歳で西郷本家に引き取られ、12歳でアメリカ留学を
経験しています。
西南戦争時には薩摩郡に一員として随行していて、その後外務省を経て
台湾支庁長や京都市長を歴任しています。
妻・久子との間に7男7女をもうけていますが、表舞台には登場してきません。
まとめ
・入れ墨をしないでなくなると天国に行けないと信じられていた
・豪農の龍佐民の孫娘として奄美大島で生まれる
・島津の掟でとぅまは鹿児島本島に入ることができなかった
・西郷が沖永良部島に送られたときが今生の別れとなった
・最後は雨が降りしきる中農作業中に倒れそのまま息を引き取った
・長女は従兄弟と婚約し、長男は京都市長などを歴任した
仲が良かった西郷と離れ離れにされたとぅま、この時の心情は
創造に難しくないでしょう。
数奇な人生の中でも西郷とその子どもたちは珠玉の宝物だったことでしょう。
コメントを残す