島津斉彬(しまづなりあきら)の子供や娘を含む子孫を紹介!死因や死後の評価と逸話とは?

島津斉彬は現在の鹿児島県出身の人物で激動の幕末を生きた人物です。

当時の鹿児島県は薩摩藩が治める領地で斉彬は薩摩藩の11代藩主として時代に名を残しています。

斉彬は島津藩の近代化に貢献したもっとも重要な人物であり、もしこの人がいなかったら歴史は変わっていたと断言できます。

西郷隆盛との関連も深く、農民出身だった西郷が国政の関わったのも斉彬の力なしでは成し遂げられなかったことでしょう。

島津斉彬とは

斉彬は当時の島津藩藩主・島津斉興(しまづ なりおき)と長男として生まれていますが
藩主になるまではお家騒動に巻き込まれて慌ただしい幼少期を過ごしています。

それに加えて父で島津斉興から嫌われていた斉彬はなかなか藩主になることができていません。

当時の薩摩藩では世継ぎが成人するとすぐに藩主を交代するのが通例ですが、
斉彬が藩主になった年齢は40歳を超えてからでした。

その理由としては2つありまして、ひとつは斉彬の異母弟である久光を世継ぎにしようと画策しています。

久光の母である側室に斉興が熱を上げていたらしく藩主に久光をしたかったそうです。

久光の記事はコチラから

もうひとつが斉彬が西洋の学問(蘭学)を好んでいたことにあります。

なぜ学問が好きなのに敬遠されていたかというと、薩摩藩は昔蘭学が好きな藩主の時代に多額の借金を背負ったことがあるからです。

その時の藩主は聡明であるのにもかかわらず金に糸目をつけず蘭学に関するものを買いあさり、現在の価格でいうと5000億円の借金を島津藩が抱えてしまったことがありました。それ以降の薩摩藩の苦労は果てしなく財政を立て直すまでの多くの時間と労力を割いたことにより島津藩は疲弊しました。

斉彬が藩主となると、その時と同じようなことが起こるのではないかと斉興が嫌がったそうです。

藩主になった後

ようやく藩主になった斉彬は人材を発掘するのに力を注ぎます。
この時発掘されたのが有名な西郷隆盛です。

西郷は貧しい農民の出身でしたが、農政に対する意見書をたびたび藩に出していてそれが斉彬の目に止まっています。

意見書の内容は当時の藩の意向に反するものが多く危ない内容でしたが、斉彬は怒ることもせず意見書に目を通したと言われています。

その後西郷は藩のお庭番に任命されて、斉彬が江戸に出立するときも同行しています。

斉彬の死因は?

斉彬は真夏に軍事訓練をしているときに体調不良を訴え、屋敷に戻ってからも回復することなく急死しています。

以前の通説では当時に流行していたコレラが原因での病死とされていますが、病期の進行の遅さや心臓が急激に弱り始めるという特徴からコレラ説は信憑性がないものとされています。

さらには本来斉彬の跡継ぎになる子どもたちが次々と病死していることもあり、斉興・久光の2人に毒殺されたのではないかと言われています

元々、藩主になってもおかしくなかった久光と斉彬を嫌っていた斉興が犯行に及んだとすれば納得できる説に思えます。

実際に斉彬の後に藩主になったのは久光です。
真相は今や闇の中ですが皆さんはどちらを信じますか?

死後の評価

斉彬は江戸時代でも屈指の名藩主として知られています。
といっても斉彬が藩主だったのはたったの7年間です。

その7年間で薩摩藩だけでなく日本中に大きな影響を残しています。

西洋の学問が好きだった斉彬は新しい技術を次々と持ち込みます。
早くから写真を撮影をし始めてみずから城の写真を撮ったり、蒸気機関に目をつけて日本初の蒸気船・雲行丸をつくるなどしています。

他にも近代化に必要な鋼鉄の量産やさつまの名産である紅ビードロを生産にも携わっています。

現代に伝わる逸話

斉彬に見出されて立身出世を果たした西郷隆盛は斉彬が死去直後は狼狽して、斉彬の後を追って殉死しようとまでしています。

周囲からの抑えもあってなんとか殉死はしていませんが、もしこの時西郷が殉死していたら日本の未来は大きく変わったことでしょう。
しかも悪い方向に

他にも斉彬はアメリカに漂流して帰国したジョン万次郎を保護しています。
万次郎はアメリカで最新の学問を学んでいて薩摩の藩士は万次郎から学問の手ほどきをされています。

その後万次郎は勝海舟らとともに咸臨丸に乗り日米修好通商条約の締結に関わるなど大きな役目を果たしています。
ちなみにこの時咸臨丸の艦長であった勝海舟は船酔いで、自室から一歩も出ることができず実際に船を治めていたのは万次郎だったそうです。

島津斉彬の子孫

斉彬には正室の他に4人の側室がいます。

その奥方たちが残した子供は6人の男子と5人の女子です。
当時としてもかなり子宝に恵まれているのではないでしょうか?

ただ6人の男子はすべて幼少期に病死をしていて斉彬の子供で残ったのは3人の娘だけでした。

将軍家に嫁いだ天璋院篤姫は斉彬の養女で実子ではありません。ただ篤姫も島津家の出自なので血縁関係も存在します。

子孫たち

残された3人の娘達はすべて島津家に嫁ぎます。
しかしそのうちの2名は出産のときに亡くなっており、寿命は全うしたのは1人だけでした。

残された一人の娘・典姫は島津忠彦(しまづ ただひこ)との間に男子を授かりますが、その後は斉彬の血筋はココで途絶えています。

歴史的資料では斉彬の子孫はここまでですが、典姫がもう1人男子を産んでいるということもあり、もしかしたら今も斉彬の血筋は受け継がれているかもしれません。

まとめ

・斉彬は父・斉興に嫌われていることもあり40過ぎという遅さで藩主になった。

・藩主になった斉彬は当時農民の出であった西郷隆盛を発掘している。

・急死した斉彬は以前はコレラが原因だと言われていたが、現在では毒殺と言われている。

・藩主時代の斉彬は西洋の学問をよく取り入れて日本の発展に貢献していた。

・歴史が一歩違っていたら西郷が殉死していたり、ジョン万次郎は帰国できずにいた。

・斉彬の実子で成人したのは3名の娘だけで、男子はすべて幼少期に病死している。

・斉彬の血筋は2代先で途絶えているが、歴史の影で受け継がれている可能性も・・・

斉彬は江戸末期の時代の重要人物として知られています。
それは西郷隆盛を見出しただけでなく西洋の文化を積極的に取り入れたことにあります。

そのおかげで日本は他国とは桁外れのスピードで近代化を成し遂げ列強の一国にまで上り詰めます。
幕末の時代の最重要人物の一人と言ってもいいでしょう。

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