島津久光の生涯と子孫や篤姫との関係は?生麦事件や花火で幕府に抗議したってホント?

幕末の英雄である西郷隆盛は男女問わず絶大な人気を持っていたそうです。
しかしただ一人だけ西郷にとって生涯の敵とも言える人物がいます。

それが島津久光です。

島津久光は現在の鹿児島県にあった薩摩藩の幕末時の
最高権力になった人物です。

西郷隆盛は島津斉彬(なりあきら)に見出されて人物でその前は農民でした。
斉彬の援助で表舞台の政治の世界に飛ぶこんでいくことになります。

島津久光は斉彬の異母弟で血縁関係になります。
西郷にとって斉彬は恩師でありましたが、弟の久光は敵という
複雑な関係になります。

島津斉彬の記事はコチラから

どうして恩師の弟が敵になってしまったのでしょうか?

久光の生涯

久光は薩摩藩の10代目藩主・島津斉興(なりおき)とその側室・由羅との
間に生まれた子供です。

久光は実父の斉興に可愛がられていて当主の座を久光に与えたいと周囲に話していたぐらいです。

斉興が斉彬になかなか家督を譲らなかったのはこれが原因と言われています。

意外にも藩主となった斉彬と久光の仲は良く、手紙のやり取り

斉彬が11代目の藩主になり急死した後、男子がいなかった斉彬の子供に変わり
藩主を継いだのは久光の子・忠義でした。

藩主とならなかった久光は影響力を持っていないと思われますが、その逆で
子供の忠義が藩主になると実質島津藩を仕切っていたのは久光だと言われています。

というのも藩主になった当時の忠義はまだ若年だったため、政治の実権は久光らが握っていました。

実権を握った後の久光

幕府の「安政の大獄」によって薩摩藩の関係者が処罰を受けたことで薩摩藩士は怒り制御ができないようになりました。

いつ暴発してもおかしくない藩士たちは京都の所司代を倒そうと動き出した所、
久光・忠義がこのことを耳にしたところ以下のことを藩士たちに告げました。

先代・:斉彬様の意思を継ぎ天皇中心の国造りを目指す。
有事の際には藩主を中心として藩全体で事を起こすので、少数で暴走するのはやめろ

内容としてはこのようなものです。
このことを知った西郷は久光のことを名君と呼び、褒め称えたといいます。

この時の久光と西郷はまだ対立関係にはなかったようです。

久光と西郷の対立が浮き彫りとなったのはもっと後です。

久光と西郷の対立

「桜田門外の変」で幕府の力が衰えたと判断した久光は、京都に上洛しようと計画します。

しかし、ここに待ったをかける人物がいました。それが西郷です。

西郷はこの上洛を道理に合わないとして反対します。この時西郷はまだまだ下級藩士で
久光は激怒したことでしょう。

久光は西郷に反対をはねのけて上洛します。この時西郷も渋々出立しますが、下関でとどまる
という命令を無視して大阪まで行ってしまいます。

先日の無礼に加えて今回の命令違反で久光は激怒します。本来、死罪でもおかしくない内容でしたが
島流しで許されています。

生麦事件から薩英戦争

上洛が成功して薩摩から江戸へ行く途中生麦村というところで事件が起きました。

久光の行列をイギリスの商人が遮り打ち捨てられました。

このことがきっかけで起こった薩英戦争は、小規模なもので両者痛み分けの形で終わっています。

しかし、このことがきっかけで日本は外国の恐怖をまざまざと見せつけられたことでより倒幕の動きが激しくなります。

久光が上洛して4回目についに念願の倒幕を達成します。

しかし幕府の代わりに政治を握った明治政府に久光は否定的でした。

その理由は廃藩置県令にあります。先祖が開いた土地を手放すとは何事だと怒った久光はある手段で講義します。
ついに強行された廃藩置県にたいして久光は自宅の庭から打ち上げ花火を夜通し上げたと言われています。

明治維新の功労から罰せられることはありませんでしたが、久光はこの後政治の世界に出てくることはなく、
国学が好きだった久光はこの後歴史資料の編纂などにあたっています。

久光の子孫

久光の長男である島津忠義は薩摩藩の藩主となっています。
他にも久光は4人の男子をもうけていますがそれぞれ島津家の分家を相続しています。

忠義の子供で注目すべきはやはりこの人でしょう。
八女の俔子(ちかこ)です。俔子は皇室に嫁ぎ脈々と血が受け継がれてそれは現在の天皇陛下も例外ではありません。

島津忠良は今上天皇の曽祖父に当たります。

篤姫との関係

島津斉彬の養女であった篤姫と久光は面識はあったと思います。

しかし篤姫はすぐに将軍家に嫁いでしまうので長い関係ではありません。

篤姫から見て久光は義理の叔父さんというところでしょう。

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