スポンサードリンク
クリックで好きな項目に移動
田中一村さんは明治生まれ画家で”日本のゴーギャン”とも呼ばれている人です。
小学生の時から文部大臣賞を受賞するなど神童として評判でしたが、一村さんが評価されたのは死後のことでした。
芸術の世界では存命中は無名でも死後に爆発的な人気となることが多いようですね。
あの有名なゴッホもそうですし、こちらは小説ですが同じ日本の石川啄木なんかも存命中は一切評価されなかったとか。
田中一村さんの作品の中でも特に評価が高いのが、奄美大島に移り住んだときに書かれたときの絵です。
このときの絵はものすごい高額で取引されてマニア垂涎の品だとか。
今回は田中一村さんの有名な作品とその値段や生涯について紹介していきます。
田中一村とは
田中一村さんについてはあまり多くのことは知られていません、というのも生前は無名の画家であったことと、晩年は奄美大島でひっそりと過ごしていたからだと言われています。
あまり多くの記録は残っていませんが、少ない情報の中でも一村さんの人柄や思想がにじみでるようなエピソードがあるのでご紹介します。
絵かきは、わがまま勝手に描くところに、絵かきの値打ちがあるので、もしお客様の鼻息をうかがって描くようになったときは、それは生活の為の奴隷に転落したものと信じます。勝手気ままに描いたものが、偶然にも見る人の気持ちと一致することも稀にはある。それでよろしいかと思います。その為に絵かきが生活に窮したとしても致し方ないことでしょう
これはまだ奄美大島に移る前の千葉県に住んでおられたときの言葉です。
潔癖と言ってもいいぐらい高尚な考えが見て取れますね。結局一村さんはこの言葉に違わないような人生を歩まれていかれました。
私は紬工場に染織工として働いています。有数の熟練工として日給四百五十円也。まことに零細ですが、それでも昭和四十二年の夏まで(五年間)働けば、三年間の生活費と絵の具代が捻出できると思われます。そして私の絵かきとしての最後を飾る立派な絵をかきたいと考えています
この言葉を見ていると一村さんの絵に対する情熱や真面目さが具現化したようにも思えてなりません。
このときの一村さんの年齢は約60歳でとっくに隠居生活を送っていてもおかしくないような年ですが、絵を書く費用を捻出するために働きに出るという、まるで物心がついたばかりの少年のようにも思えます。
一村さんの生涯
幼少期から青年期まで一村さんは水墨画に傾倒していました。東京藝術大学に入ったときも学科は日本画科と私達がよく知る一村さんの絵とはかけ離れています。
23歳のときに水墨画と決別して私達が知るような画風になります。その後も展示会などに数多くの作品を出展されていますが、そのほとんどが落選。
その後は50歳で奄美大島に移り染色工で生計を立てながら最後まで絵を書き続けたそうです。
一村さんが奄美大島に移られたときの心情はどうだったのでしょうか?
中には中央の画壇に認められず絶望のまま移り住んだという人もいますが、そのようなことはなかったのではないでしょうか。
確かに多くの作品が落選して途方に暮れていたように思いますが、奄美大島で書かれた作品を見るとエネルギーに満ち溢れたような気になります。
それは中央に認められなかった陰のエネルギーでは決してなく、自然に対する好意や尊厳を感じるようなエネルギーに見えます。
有名な作品の値段
一村さんの作品で有名なのが奄美大島に移られた後に書かれた作品です。
その時の代表的な作品である”花と鳥”や”ダチョウとアカショウビン”などは最低価格でも一千万はするそうです。
そして一村さんの最高傑作と呼ばれも高い”アダンの海辺”に至っては値段が付けられないくらいのものだとか。
一村さん自身もこの作品は「これは百万円でも売れません。 これは私の命を削つた絵で閻魔大王への土産品なのでございますから」
といっており絶対に売れない作品だと行っておられます。(100万円はたとえでこの10倍積んでも一村さんは売らなかったことでしょう。
この”アダンの海辺”はいま千葉市美術館に寄贈されています。
しかし、常に見ることはできず限られた展覧会でのみ見ることができます。
一村さんの作品を手元で見てみたいという方は作品集を買うのもいいですね。
まとめ
・一村さんの絵に取り組む姿勢は真面目そのもので、潔癖のようにも見える
・一村さんは23歳で千葉県に50歳で奄美大島に移り住んでいる。
・奄美大島時代は染色工として働きながら絵を書いていた。
・一村さん作品で有名なものは奄美大島の時代に書かれたもので”花と鳥”や”ダチョウとアカショウビン”などは最低価格でも一千万はする
・最高傑作と言われる”アダンの海辺”に至っては値段が付けられない
・”アダンの海辺”千葉市美術館に寄贈されているが常時展示されているわけではない
一村さんの人生を振り返ってみるとあまりにも真面目で不器用な用に思えます。
もっとうまく立ち回っていれば画壇のなかでも認められ生前から有名画家として名を馳せていたかもしれません。
しかし、それでは奄美大島に行くこともなくなりその時の絵は描かれていなかったことでしょう。
Sponsored Link
コメントを残す